では今回は
「もしも自分の余命がわかったらどうなるのか?」
について
動画であかりちゃんがしていたこと
・好きな人に告白する
・叙々苑に行く
・見られてはまずいものを消す(スマホの履歴やパソコンの淫らなファイル)
・とっておきのポテチを食べる
・遺書
・別れを告げる
パタ
もくじ
・好きな人に告白する
めうにんげん、意外な勇気は持ってるパタ
そして、上手くいかなかったら渋谷に繰り出し、
宮益坂(※)を往復し続け(※2)、
お姉さんに声をかけまくり、
死ぬ前にデートをしてから死にたい
※渋谷から表参道方面に向かう坂で真ん中に郵便局がある。
※2郵便局はどこにありますか?と道を聞くことで女の子に話しかけつつ郵便局まで一緒に歩くことができる。
ちなみに、デートに行くならどこがいいパタ?
私にとってはそうだ
フェルミ研究所でも、
「人生が長くて退屈だから、動画を作るのです。」
というお言葉があるよ
※様々なスポーツやアーケードゲームが遊べる施設。ラウンドワンの特定店舗にある。
※2神奈川県が誇るリヴィエラ。
参考
【50cc原付伊豆半島一周】めうにんげん旅行記・下田→横浜編(最終日)※3神奈川県最南端。
・叙々苑に行く
叙々苑は高級焼肉店パタ
ドレッシングがおいしいパタ
めうにんげんは行ったことないパタ
そう、だから使い切る
ただ、死後に思い出も持ってはいけない
だから貯金は残すなり寄付するなりしてもいいけど、
死ぬ間際になっても思い出を作らなくてもいいと定義しちゃったら人生何がなんやら
自分にとっての‟最後の晩餐”はどこがいいだろう
この問いを少し考えてみたのだが、
「蒙古タンメン中本の蒙古タンメン」という結論に至った
次は「蒙古タンメン中本の北極ラーメン」だ
・見られてはまずいものを消す(スマホの履歴やパソコンの淫らなファイル)
・とっておきのポテチを食べる
・遺書
・別れを告げる
私の好きなSchool Daysってアニメがあるんですが
誠と世界が死んで言葉がいなくなっても、
皆日常に戻ってるんですよ
・富士山に行く
※エベレストのこと
富士は日本人の原風景にあるのかもしれない
・遊ぶ
私は安上がりの人生だ
それでいいだろパタ
めうにんげんは日高屋の中華そば(※)を美味しく感じるパタ
化学調味料を一切認めない山岡さん(※2)とどっちが幸せパタ?
※多分化学調味料をふんだんに使用している
※2美味しんぼの主人公
カラオケは大勢の日本人に愛されているからこそ、
こんなに多くの店舗ができ、
それゆえに安く利用できるパタ
「ウォール街」って映画知ってるパタか
アメリカ人の主人公たちは成り上がって寿司パをするパタ
しかしそれを主人公の父親は冷めた目で見るパタ
「私は魚を生で食べようとは思わないね」
寿司をゲテモノ食扱いするなんて許せないね
ま、この映画はバブル時代の映画だし
当時はそこまで日本食への理解は無かったのだろう
これはバブリーな豊かさを追い求めるも満たされない主人公を皮肉ってるパタ
寿司でも火星人の足でもいいパタ
常に他人と自分が不利になる尺度で比べるパタ
それはあらゆる尺度で他人を上回ろうという気持ちの裏返しパタ
なんでそう極端になるパタ?
金が不要とまでは言ってないパタ
ただ、
少しのお金があればマックスハピネスは得られるパタ
死ぬ前に思うこと
そういえば私が小学校中学校位の頃は、
家が気持ち悪かったけどそれでもネットで悲惨なニートの身の上を聞いて「草wwww」みたいに思えてたな
なんでだろうな🤔
わかったこと
・やりたいこと
しかしそのことに引け目を感じる必要がないのは、
この記事の会話でわかったはずパタ
こうして記事で自分と対談することで
そのことに気付けた
・優先順位
金は欲望を解消しない。
むしろ、金が欲望を作るのだ。
めうにんげん
とても身近な話題だっので見入ってしまいました。自分が余命0日宣告から5年過ごしています。一応皆にお別れを告げ…欲は全く無いです。ひとつだけ、息子に何を残そうと考えた時お母さんは優しい人だったと思い出を残すことにし、女神のように接して5年。そろそろキャラ戻したいなと悩み中です。余命4日宣告され、色々やったあとあら?ってなったら先生はどうやって過ごしますか?アドバイスお願いします!長文失礼しましたです。
>匿名さん
残り人生が短い(かもしれない)のですね。
このブログを訪ねてくれてありがとうございます。
キャラを戻すかどうかはどちらの方が効用(メリット、ハピネス)が大きいかを判断して決めてはいかがですか。
戻せばご自身は過ごしやすくなる反面、最後にご子息は戸惑うかもしれない。
しかし、戸惑いを超えて人生観に大きな衝撃を与えることもできうる。
果たして、戻さない場合とどちらが効用が大きいだろうでしょうか。
僕がどうやって過ごすかですか。
具体的な行動はちょっとその時が近づかないとまだ予測が立たないので、
いくつかのフレームを示します。
人間は個人よりも人間という種全体で生き残るよう本能的にプログラムされていると大学の科学と宗教の講義で学びました。
この神が仕込んだプログラムとやらに従うのはしゃくですが、とりあえず生きる目標が欲しい僕はプログラムをものさしにしています。
ですので、死ぬ前はそのプログラムに従ってるかもしれません。
人間は幸福をマックスにするために生きる、という考え方もあります。(量的功利主義)
残り寿命が短い中でいつも通りの日常を過ごしていたら、それは日常が自分にとって最も幸せだということに。
それと、経済学では人間は自分の効用(幸福)が最大になるよう過ごしているという思想があるんですよ。
それに従うと、日常を選んで過ごすことは自分にとって最大の幸福を実現しているという証明になります。
ここで、古今東西の文学や思想に通暁していた漫画家、手塚治虫先生の「火の鳥 鳳凰編」に出てくるフレーズをお目にかけます。
「生きる?死ぬ?それがなんだというんだ
宇宙の中に人生など無だ!ちっぽけなごみなのだ!」
自分の命が生きたり死んだりするのは大したことではないです。
コメントをありがとうございます。
めうにんげん
おもしろかったパタ(๑^⌔^๑)
めうさんアイコン変えたんですね、気がつかなくて見に来るの遅くなりました!
>みちゅくさん
ありがとうございます(人”▽`)
アイコン変更しました!
めうにんげん