【センシティブ】「性の6時間」にこだわるのはおかしいと思います。

 

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カツドンチャンネル(Youtuber)性の6時間なんかに負けるなー!

性の6時間なんかに負けるなー!

性の6時間なんかに負けるなー!

頑張ろう!!」

 

参考 性の6時間なんかに負けるな!!ニコニコ動画

 

さっき三宮(神戸市の一番中心の繁華街)から新神戸(隣の駅。恋人に人気の施設が色々ある)まで歩いたんですけど

前日の「性の6時間」と大差ない大賑わいわいだったんですよ。

ロープウェイに長蛇の列でぺったんぺったんぺったんたんですよ。

 

 

それを見ていて思ったんですけど、別に「性の6時間」概念は‟6時間”に限った話ではないのではありませんか?

 

 

 

なにがいけないかって「性の6時間」と言う語はなんというか、表層的といいますか、また、一面的にとらえ過ぎだと思うのです。

「性の6時間」という言葉が‟本質”を見誤らせていると思います。

 

「性の6時間」に全てを投影して、そしてその6時間に「負けなければ」いいのですか?頑張るのは「性の6時間」だけなのか?もっと深いところで向き合うべき課題なのではないでしょうか。

 

 

アダムとイブが禁断の実を食べてから幾千年

人は恋するロボットなわけですからね…

ワカリマスカ?

 

 

 

 

 

またこの言葉は、クリスマスや、「恋人」に対する認識やら順序がそもそもおかしい気もする。現象は当たっているんだけど、現象が当たってればいいわけでもない気がする。

 

 

 

最近気づいたんだけど

 

「恋人」の本質はフィーリア「孤独感」(※)の逆ですからね

 

と僕は思うんだよ。

 

「孤独感」の放置は死に繋がります。

 

 

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奇跡の夜が紡ぐ 魔法の時間が

いつもより少し素直な気持ち くれるから

 

holy night magic/fripSide

 

 

それでもボクは「エロ」を語りたい。

 

めうにんげん

 

 

 

今日の授業は終わり!

また来てね!

 

 

 

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